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オープニング [ひとりごと]

今日、ペンケースを開けます。
中身は以前ホームページで書いていた富士での滞在記(ふじ...折りをり)、チャリン歩ログやらウォーキングログ、ひとりごと等々です。ホームページはHTMLで書いているのでなかなか更新できずイライラさせましたが、ブログは簡単ですね。
宜しければお付合いください。
ポチテトは別のブログになりました。リンクからどうぞ

「かわいいグランマ」 [ひとりごと]

左欄のリンクにあるブログ「かわいいグランマ」を書いているのは私の母である。
 今から6-7年ほど前、丁度私が心筋梗塞を起こすちょっと前、母は一人でパソコン教室「アビバ」に通いパソコンを覚えた。最初のPCはコンパック Presario 3567。約8ヶ月、高齢受講者No.1をものともせず頑張ったが、現代っ子のレクチャーにワード、エクセルなど習ったところで止めた。本人は資格を取りたかったようである。その頃母の友人からパソコンのインストラクターをやっているA・Nさんを紹介され、今度は自宅で教えてもらうようになって、メキメキ腕を上げた。暑中見舞い、年賀状は写真を加工し、自分で仕上げる。カメラはCASIOのExilimの一番薄いカード型で私も好きなデジカメである。そんな母が、A・Nさんのブログを見て無理を言い、自分のブログを始めた。81歳を過ぎての頑張り!まだ写真をアップする所までいっていないので、教えようかと思っている。現在のPCは、コンパック nx 7010。

いまだに、夫の墓参りに鎌ヶ谷近くの市川霊園まで運転して行く母 凄い!
NHKの基礎英語をやっている母は凄い!
お茶をやりに、板橋、蓮沼の南蔵院まで出かける母は凄い!
折り紙教室に通う母は凄い!
俳句の会に通う母は凄い!
友達が沢山いて、毎日のように、出かける母 凄い!
そして、ブログを頑張る母は凄い!
因に、ハンドルネームはrocketritukoである。これも凄い!
なお、すでに私小説「道」が完成している。いずれ紹介もできる。これも凄い
また、「ポチテトと愉快な仲間達」の第3子分が母である。これも凄い?



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「ちょっと一休み、道草人生」 [ひとりごと]

 毎朝、夏は5時半頃、冬は6時半頃、ポチテトを連れて散歩に行く。そのときよく会う二人のご老人がいる。一人は75歳くらいだろうか、スタスタ歩き、犬達を見ると立ち止まって犬に挨拶をする。彼は犬が苦手で触れることはしないが、毎日歩くようになってから犬とお喋りができるようにまでなったと笑う。毎日歩くようになったのは多分5〜6年前くらいだろうか。初めて会った頃、その老人は杖をつき、必死に何も感じないであろう右足の土踏まずに、恐る恐る体重を落とし、一歩一歩ゆっくり頑張っていた。何年かして杖がはずれ、そしていつか健常な人とは全く違うがそれでもスタスタと散歩ができるようになった。

 ブログ「ちょっと一休み、道草人生」の作者も今、2年前に自分を襲った病魔の後遺症と闘っている。ブログの中は楽しく、美味しく、そして必死である。
作者A・Nさんは、私の母にパソコンを教えた家庭教師である。そして母のかけがえのないメル友でもある。この間は我が家にまで来られ、三階の母の部屋まで階段を上がり、埼玉屋のおにぎり、手作り豚汁で昼餉をとり、さらにパソコンレクチャーまでして帰られた。彼女のブログにはちょっとした小旅行と書いてあったが、大変だったでしょう。何よりいつも側にいて彼女を支えていらっしゃるKさんに頭が下がります。
昨年夏には、私が出展した東京芸術劇場での展覧会や、私の個展にも不自由を不自由なままいらして下さいました。
実は彼女は倒れるまでホームページを持っておりました。そしてそのHPは今でも生きていて、トップページには「2006/11/9  ごめんなさい。暫くおやすみします。休業中」と書かれています。「ちょっと一休み、道草人生」は2008/3/18からですから、彼女にとってのその間の1年4ヶ月は筆舌に尽しがたい大変なものだったのでしょう....

 散歩中に会うもう一人の老人は、多分90近いご婦人で、杖をつき、ゆっくり一歩一歩自分が前に進んでいることを確かめながら歩いています。私達の「お早うございます」の声に、前下方を見据えていた顔を上げ「おはよう」としっかり応え、笑いかけます。その笑顔の可愛いこと。彼女を見るようになったのは4〜5ヶ月前。
確実に、着実に足取りはしっかりして来ています。


ブログ「ちょっと一休み、道草人生」は左欄リンクより
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猪の豆まきと8月の子 [ひとりごと]

 昨晩は豆まきだった。我が家は毎年一人一合ずつの豆を玄関、窓を開け放ち、最初のうちは「鬼は外、福は内」も時間が経つうちに豆合戦になり、豆礫が容赦なく炸裂する。犬達は最初は美味しい豆に大喜びであるが、次第に豆礫の的になりだすと椅子の下に潜り込み尾を丸める。先日、「所さんの目がテン」で、子供にとって、鬼をやっつける父親は強い父として刷り込まれ、将来にわたって父親の尊厳を維持する最初になるとか。夢々父親を鬼に仕立てて家族で豆をぶつけるようなことをしてはいけないと、子供の脳波まで測って証明していた。我が父はどうだったかな〜と思うが、その父も昨年33回忌を終えた。
 父親の誕生日は2月3日で私の誕生日は8月3日である。ぴったり半年違う。そんな訳で父親が亡くなった53歳の10月16日と同じ、53年目の4月16日を越えたときの感慨はそれなりにあった。しかしそれから丁度2ヶ月後の6月16日、私は心筋梗塞を起こし川を渡りかけた。そして今これを書きながら、気がついた。父の誕生日2月3日私の誕生日8月3日、2383は私の生年月日である。私は昭和23年8月3日生まれでした。偶然にしても、これほど数字が重なるとは....父親は大正12年の猪、私は子ある。父は時代の流れの中で叶わなかった想いを遂げるため、2代を生きようとしているのか。因縁を感ぜられずにいられない......
 豆まきの豆は、近所の「但元いり豆本店」で買ってくる。大正8年頃の創業の豆屋で量り売りの店でる。周りは鳩が沢山いるし、店の中からハトがバァー!と飛び出してくることもある。店の前には、店に向かって役所が建てた看板が立っている。「ハトにエサをやらないで!糞害で困っています」。糞も困るだろうし、衛生面の問題もあるのだろうが、豆を狙う鳥もいない豆屋の豆なんて.........今日から春です

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「桐子の書斎」 [ひとりごと]


「いいね」「いいね〜」身を乗り出して、木彫を眺める豪快な桐子さんは、私の昔からの患者さんである。
 今から3年くらい前、診療台に座るなり、目の前の木彫を指し、あれは何?と聞いて来た。私が彫っていることを伝えると、えらくビックリされ、危うくユニットから転げ落ちそうになった。その時から、いいね、いいね〜が聞かれるようになった。それまでは私にとっての、いつもの患者さんが、その日を境に昔からの患者さんになった。昔からの患者さんとは、気のおけない患者さんということである。
 この時、この方が、俳人であることを知った。

「水中花傘寿の三島由紀夫笑ふ」

句や、立ち居振舞い、喋り方から男っぽい方だと思っていたが、「桐子の書斎」で見せる顔は、艶っぽく、色香を感じさせる。

「沈丁花いつかあなたの根の土に」

それでも、活動的で東京の好きな彼女。

「ゴリラ見てあとは上野の心太」

昨年末、いろいろ考えて、転居しようかと思っています、と寂しそうにポツリ...
そして、引越話はあっという間に話ではなくなり、都会が大好きだった桐子さんは故郷の近くへ帰って行きました。

「たつしやでな伝言板の大旦」
「去るものは去り俎の葱二本」

それでも、彼女は、よく(笑)っているようです。
 泣きの涙を笑いの涙に隠れさせ..

「山眠るひとが一人になる真昼」

多分こうした静寂の中で「書斎」にいる桐子さんは、戸惑いながらも、さらさらと筆を走らせているのでしょう。
 私も「普段着の神々」を休日以外埋め続けることで、同じ日々でも違った毎日を過ごすことにしました。桐子さんが私に引越の話をしたあたりから、そして「桐子の書斎」に私の木彫を飾っていただける間は....

「生涯のあらかたは終へ大くさめ」


     いろはにほへとちりぬるを..........

いえいえまだまだ、これからも穏やかに、そして艶やかに、四季を詠み続けて下さい


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  「桐子の書斎」には、左欄のリンクからどうぞ



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2冊の旅行記+1 [ひとりごと]

 今日、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(高梨健吉訳)を読み終えた。平凡社ライブラリーから出されている500頁を超える文庫本であるが、1878年(明治11年)47歳のイギリス人女性が、東京から日光、新潟、小国、米沢、山形、新庄、横手、秋田、青森、そして北海道を一人の日本人を連れて旅した紀行文である。読み方として、女性の一人旅としての驚き、当時の日本の風景、当時の西欧思想から見た事象の対比、宗教感の違い、彼女の博識や向学心、いろいろあり、感想も又まちまちであろうが、彼女が盛んに伝える安全、女性一人が無事に東京から北海道へ旅し、帰って来られた事実が何より日本を語っているよう思われた。
 もう1冊は、「シュリーマン旅行記 清国・日本」(石井和子訳、講談社学術文庫)1865年(元治2年から慶応元年になった江戸時代末期)に43歳のシュリーマンが世界漫遊の途中に立ち寄った中国と日本の旅行記で、約1ヶ月間の日本滞在に際し、西欧からの目を通してではなく、一人の人間として、興奮し感激している様があちこちに見られる。彼はこの6年後トロイの遺跡を発見した考古学者である。
 そして、もう一冊。これは旅行記ではないが、1562年来日〜1597年に長崎で亡くなるまでの信長、秀吉時代に布教活動をした宣教師ルイス・フロイトの「ヨーロッパ文化と日本文化」(岡田章雄訳注、岩波文庫)これもまた古き良き日本を西欧と対比させながら書かれた本である。一つ一つの事柄に訳注がついているので非常に分かりやすく書かれている。そして、このカバーにある紹介文「......貴重な資料であるだけでなく、現代の我々に様々な問題をよびさまさずにはおかない。」これが、今回紹介した3冊に共通しているテーマです。
まだ、お読みでなければ、是非どうぞ...
   いまこの殺伐として浮ついた日本は、かつて..............

nihon-okuchi-kikou.jpg「日本奥地紀行」
schlieman.gif「シュリーマン旅行記 清国・日本」
luis.flois.gif「ヨーロッパ文化と日本文化」

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サクラ咲く [ひとりごと]

 
sakura.jpg2009/03/23 06:43:10

 昨日、朝のポチテトの散歩で、一昨日は見なかったサクラの花を見る。文泉公園の小さな桜に一輪。一亀小学校の桜に数輪。2丁目公団住宅の桜に2輪。東京の開花宣言は、21日だったから2日遅れである。
 文泉公園のサクラは、なぜか太くならない。昔から多分こんなもんだったのだろう。ちょっと貧相である。
 一亀小のサクラは道路にせり出していた太い枝が切られた。一年生は入学式でサクラ吹雪を浴びることはなくなった。恐らく、道路に出た枝は、これからも切り落とされるのだろう。幹は太いが、何とも貧相である。
 2丁目公団の桜は、駐車場の出入り口に、2本の立派なサクラがゲートを築き、それは見事であった。しかし、公団の駐車場やら駐輪場やら公園やらを整備するとかで、仮駐輪場を建てるためにそのうちの一本が切り倒された。もうサクラのゲートは見られない。上の写真は、その片割れザクラに咲いた2輪の花。いつもこちらのサクラが早く花をつけ、競うようにもう一本が花を咲かせた。知ってか知らずか、今年は今はない片割れに向かって2輪の花を咲かせた。
その他公団では20m、30mするケヤキが二桁伐採され、メイン広場にあった、ハナミズキもすべて切り倒され、仮駐車場になった.........。
 私が毎日ポチ達と散歩するようになったのは、今から7年ほど前、心筋梗塞を起こした年の夏からである。夏の緑の濃い時期から、秋冬へ葉が散り、春サクラが花開くと、来年もこれを見られるだろうかと毎年のように思う。特にサクラの散るを見て想う。そんな身近なサクラが今年貧相になったり、片割れをなくしたり.....残念で.....哀れ......思うこと多し...


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さくらが咲いたよ [ひとりごと]

サクラが数輪咲いたかと思ったら、寒気が流れ込み、昨日の朝は雪がちらつきました。
満を持しての開花もちょっと遅れるかもしれません。
 サクラをタイトルにした曲は沢山ありますが、私の一押しは、久石 譲作曲、彼の娘麻衣の歌う「さくらが咲いたよ」
4-5年前TSUTAYAで借りたCD「久石譲-Complete Best Selection」に入っていた曲で、妖しく、切ない唄で、さくらの持つ何とも言いようのない世界を唄い上げています。
 もう1曲は河口恭吾の「桜」
 2曲をYou Tubeからどうぞ。



「さくらが咲いたよ」作曲;久石 譲  作詞;宝野ありか 歌;麻衣

 さくらが咲いたよ
 薄紅花街 
 峠に咲いたよ 遠く鐘が鳴る
 男はダンビラはためかせ 女のため今宵も首を取る
 愛しては果てのない孤独ばかり

 さくらが咲いたよ
 朧春霞 恋しや都と鳥が啜り泣く
 男は不安に荒れ狂う 女があまりに美しすぎて
 満開の花の下の恐さに似て

 さくらが咲いたよ
 地獄獣路 命惜しかろと屍が嗤う
 さくらが揺れるよ
 風さえないのに はらはら零れた血染めの簪

 咲き乱れ 舞い遊び 手のひらが花になる
 愛惜しや 恨めしやその胸を殺めたい
 咲き狂い 舞い堕ちてこの躯 風になる
 花びらが散るたびに 人命が散っていく

 さくらが咲いたよ
 この世を埋めて
 さくらが散ったよ 
 あとは何もない



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河口恭吾 「桜」



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 [ひとりごと]

niku-1.jpg
 上の写真は、肉である。凡そ1.3貫目ある。分かりにくい? 5kgの牛のスジ肉である。東上野2丁目のキムチ横町で100g 155円で買って来た物である。以前は100円だったが、狂牛病問題などで品薄になった時に上がったと記憶している。それでも安い。スジ肉というとスジばっかりという印象があるが、これはスジがないスジ肉である。殆ど肉で、スーパーなどのカレー用の肉より柔らかい。以前からたまに3kg、5kgとチャリン歩の帰り、買って来ては、豪勢な煮込みやら、シチューやらカレーを楽しんだ。5kgという量が分かりやすいように、隣に煙草のパッケージを置いてみたが、見た目以上の量である。そして、今回のこの肉の主たる用途は、ダイエットである。
 元旦から今まで、あっという間に3.5kg肥った。しかも元旦までに3kg肥っていた!都合6.5kg!ズボンは合わなくなるは、みっともないはで、ダイエットを宣言。まず5kgの減量ということで、この肉のことを思い出し、買って来たという訳。いや〜5kgの肉の重いこと!しかも、これより1.5kgも余計な物が私の体の中にあるかと思うと、冗談じゃね〜痩せてやろうじゃないか、という気になる訳です。実は家中ダイエットをしておりまして、テトは1kg超のダイエットに成功! たった1kg?じゃありません。彼女の体重は肥って5kgだったのです。それが今や4kg!50kgの人が40kg、60kgの人が48kgですよ!途中具合が悪くなったり、10円ハゲが出来たりしたので動物病院に行ったら、何か強いストレスがあるようだけど、心当たりありますか?と聞かれ「さ〜」ととぼけて帰って来たぐらいです。娘も頑張っております。
 で、私はこの肉の塊を見て、油がたら〜り、たら〜りのダイエットをすることにしました。
因に、下の写真はビニールから出した5kgのスジ肉。勿論この日は、この肉をシチューにしハフハフ言って食べながら、明日からの減量に乾杯をしたのでした。
niku-2.jpg


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ラッペの独り言 [ひとりごと]

 ブログ「ラッペの聞いてもらいたい独り言」を書いているのは、今から20年ほど前一緒に仕事をした仲間である。僅か1年ほどの間であったが、人の話は目を見て聞き、こと仕事のことに関することを聞くときは、宴席でも酒を口にしない。しっかりとした若者であった。某有名企業の御曹司でもあった彼は、何故か我々と同じ道を選び、高齢化は進んでいたが、まだ高齢社会ではなかった20年ほど前、老人専門への仕事に身を投じ、今では数冊の成書を上梓しているその道のエキスパートである。

 その彼が今、四十不惑の節目に職場を変えた。人生半ばを過ぎたここで方向を少しでも変えることは大変なことである。しかし、これからの不惑の道を歩むには、どうしても必要な舵取りだったのだろう。その決断と家族の理解には、ストレス社会に怯え、事なきを願うばかりの何となく生きている私にとって頭が下がる。
この再チャレンジは、今まで歯を食いしばってやって来たことの裏打ちがあればこそである。自負があるのだろう。だから出来た。

 先日、彼に我家での講演を頼んだ。実に分かりやすい講演で、頭の中のもやもやがすっきりした。分かりやすく人にものを伝えることができるということは、その本質をしっかり理解していることである。どんなことでも小学生にも分かる様に説明出来るようになるには、深い知識と、何より知恵がいる。20年前に私のところにいた彼は、その当時のまま、真摯に仕事と向き合っている。

 ブログのプロフィールに、どっかの熟のCMのような悪戯書きをした顔を載せているが、実は「転々」の三浦友和ばりの風貌で、その仕草やらもそっくりである。そして今彼は、その「転々」の中にいる。
   たまに「独り言」を呟きながら.....



tenten.jpg  三浦友和・オダギリジョー主演「転々」より


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